「報道冤罪」の恐ろしさ
皆さんは「報道冤罪」という言葉を知っているだろうか。
「冤罪」とは、皆さんもご存じの通り、無実の罪、濡れ衣、無罪であるにも関わらず罰を受けることを意味する言葉だ。
したがって「報道冤罪」とは、新聞社やテレビ局などの報道機関による報道によって、ありもしない罪を着せられてしまうことを指す造語である。
報道は三権(行政・立法・司法)に次ぐ「第4の権力」とも呼ばれるほど、絶大な影響力を持っている。
一度犯罪者として認識された人間は、後に無実が証明されたとしてもその冤罪の影響で人々から避けられ、煙たがられる。
例えば、あなたにとって身近なある人物Aが殺人を犯したとテレビで放送されたとしよう。5年後、彼が無罪であることが確定し、釈放された直後にあなたに連絡を取ってきた。
あなたはどう感じるだろうか。5年もの間「殺人者」だと思っていた相手に以前のように接することができるだろうか。
もちろん彼の不幸を思い、できる限り不快感を与えないようにあなたは精一杯振舞うだろうが、多くの場合、これまでに思い込んでいた恐怖は完全には消えないものである。
だが、これはまだ不幸中の幸いである。
Aの無実が証明されたことが何らかの理由で報道されなかった、もしくはその報道があなたの目に触れることがなかった場合は?
もっと身近な例もある。犯罪ではないが不倫や浮気などのような人間としての印象に悪影響を与えるものに関しても同様だ。一度染みついた感覚はぬぐい切れないものだ。
人間は一度認識した情報がそのまま印象に反映されてしまい、どんなに事実が変わろうとも「頭ではわかっているのに」という状態に陥りやすい。
報道は世論を動かす。そして私達はそれにほとんど気づかない。
残念ながら世の報道の多くは公正・公平で中立な立場を取ってはいない。なぜなら彼らは営利企業であり、社会的責任よりも既得権益と保身を優先するからだ。
ましてや自分達にとって都合の悪い情報は流さず、都合が良くなるように故意に情報を捻じ曲げる(もしくは印象操作をする)。
報道冤罪は人を苦しめ、最悪の場合死に至らしめる。これは報道機関の責任だけでなく(というか彼らが自発的に変わることは恐らくない)、私達の「リテラシー」の問題でもある。
報道機関は事実を報じない。どんなに事実を伝えようと尽力しても、人が介入する以上偏りは生まれてしまうものだ。
「報道冤罪」という言葉を理解すること、この言葉が世に浸透することが住みやすい世界を作り上げる事に繋がるのではないだろうか。