詞がない音楽とメロディ偏重の時代――私たちは歌詞に意味を求めなくなったのか
音楽は人類の歴史とともに常に私たちのそばにあり、その名が指し示す通り「音を楽しむ」ものだ。一方で、「歌」は基本的には言葉である。辞書で「歌」を引くと、「拍子と節をつけて歌う言葉の総称、一定の音節数で語の調子を整えた感情の表現、和歌、とりわけ短歌をさす」といった説明が並ぶ。
日本の歌は、『万葉集』をはじめとする古代の和歌の時代から、言葉に託した心の動きを旋律にのせて届ける形をとってきた。つまり、歌をかたちづくる中心は「詞」だとも言えるのではないだろうか。
では、現代の歌はどうか。私の印象にすぎないかもしれないが、「詞」の重みは年々軽くなっているように思える。耳に馴染む言葉や、心地よい(時に奇抜な)音の羅列だけが目立ち、強いメッセージや心を揺さぶる言葉は少ない。もちろん、すべてがそうだと言っているわけではない。これは、詞を書く側と聴く側、双方の「国語力」の低下を象徴しているのかもしれない。
いちばん気になるのは、書き手が少なくとも何かを伝えたいと思っているのに、生まれてくる歌詞が、稚拙で取るに足らない(しがない)ものにとどまる例が少なくない点だ。詞がないというのは、歌詞が存在しないという意味ではない。詞は存在しているのに、しがないのだ。
優れた旋律をつくる作曲家と、それに詞をつける作詞家との分業が以前より減ったことも、一因だろう。誰もがシンガーソングライターになれる時代であり、これは悪い面ばかりではない。
旋律は非常に優れているのに、歌詞が物足りない曲がよく売れている。そういう例を目にする機会が増えたが、逆の例はあまり見かけない。そうした曲が少ないのか、売れないから目につかないのかは、私には分からない。時代や社会の影響も大きいだろう。ごく瞬間的な快楽のための楽曲が世を席巻しているように見えるし、歌手の見た目も、少なからず関係しているはずだ。
音として聴くことが悪いと言うのではなく、音の響きだけで成り立つ歌詞を否定するのでもない。ただ、そういう曲が増えた、と言っているだけだ。前奏や間奏は極限まで短く、テンポは速く、転調を繰り返す。そうした音楽が、世代を超えて聴き継がれる名曲になるのだろうか。
創作は自由であるべきだ。私は個々のアーティストの活動や作品を否定しているのではなく、業界全体を見たときに感じることを素直に伝えているにすぎない。
若い世代のあいだでは、昭和歌謡に代表される、時代を超えて語り継がれてきた歌が流行している。当時のままであれ現代風に解釈されたものであれ、その価値が今の人々の心に響いているのは事実だ。
曲をつくることが容易になり、誰もがすぐに聴けるこの時代に、本当に価値のある音楽は増えているのだろうか。そして、本当に価値のある音楽は、正しく評価されているのだろうか。


