過剰な「愛」と「暴力」の物語は本質的な価値を持つか

 愛と暴力。これまでの人類が作り上げてきた創作物において、この2つが描かれなかった時代はない。

 だが、人類の根源的な「本能」に刻まれるこの2つの概念を、その〝過剰性〟によって刺激するだけの作品が世の中には溢れすぎているような感覚がある。

 「愛」は人類がその生殖能力によって種を繁栄させるために不可欠なものであり、「暴力」は人類が生き延び、種を繁栄させるうえででき得る限り避けなければならないものである。

 近年、高い興行収入や視聴回数を誇る映像作品には、劇的かつ残虐な死溢れ出る血潮過激な性描写が必ずと言っていいほど描かれる。その過剰さは増すばかりである。

 過剰な愛と暴力。これらは本能を刺激し、私たちが真に感動を味わった時と同様の高揚感と興奮を与える。だが、このような作品が本質的な価値を持つと言えるのだろうか。

 私たちは一時の興奮や本能的衝動を誘発する視覚刺激を〝面白さ〟と履き違えていないだろうか。このような作品が「侘び寂び」と呼ばれる、質素さ・簡素さ・慎ましさの中に奥深さ、豊かさのような趣を感じる精神を破壊してはいないだろうか。

 無論、私はこのような作品の絶滅を願っているわけではない。残虐な描写がある作品が本質的な価値を持たないと言いたいわけではない。さらに言えば、制作に対する制約の増加は価値のある作品を生み出す土壌を壊しかねない。

 ただ、過剰なのだ。これは私たち視聴者の問題でもある。過剰性を面白さと勘違いする人々が増えるほど、資本主義の中でそのような作品が増えることは必然といえる。

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