詞がない音楽とメロディ偏重の時代
「音楽」は、人類が誕生した頃から常に私たちのそばにありました。その名の通り「音を楽しむ」ものです。
一方で、「歌」とは基本的に言葉です。辞書で「歌」を引くと、「1. 拍子と節をつけて歌う言葉の総称。2. 一定の音節数によって語の調子を整えた感情の表現。3. 和歌。特に、短歌をさしていう」といった説明がされています。
「歌」は『万葉集』の時代(7世紀頃)の短歌に始まり、時を経て言葉に詩の伝えたい心象などを旋律に乗せて届ける形式をとってきました。
つまり、主として「歌」を形成するのは「詞」なのです。
では、現代の「歌」はどうでしょう。私の印象に過ぎないかもしれませんが「詞」の重要性は明らかに低下しており、聴き馴染みの良い言葉、心地良い音の羅列が目立ちます。そこに強いメッセージや心を揺さぶる言葉はあまりありません(もちろんすべてではないです)。
これは、歌詞を書く側、そして聴く側の「国語力」が低下していることを象徴しています。
最も問題なのは、歌詞を書く側は(一応)何かを伝えたいと思っている点です。しかし、生み出されるのは稚拙でしがない(取るに足らない)歌詞達です。
優れたメロディを作る作曲家とそれに詩をつける作詞家の分業が以前より減少し、誰もがシンガーソングライターというのも原因の1つかもしれません。これは決して悪い側面ばかりではありませんが。
非常に優れたメロディなのに、歌詞がどうしてもダサい歌がよく売れているのを目にする機会が増えました(逆はあまり見ません。これはそういう歌があまりないのか、売れていかないから目につかないのかはわかりません)。
時代的・社会的な側面も大きいと思いますが、極めて瞬間的な快楽のための楽曲が世の中を席巻しているようです。歌手のビジュアルも少なからず関係しているでしょう。
単に音として聴くことが悪いというつもりも、音の響きだけがいい歌詞を否定しているわけでもありません。ただ増えた、といっているだけです。前奏や間奏は極限まで短くなり、テンポもピッチも上がり、転調を激しく繰り返す、そんな音楽が世代を超えて聴き継がれる名曲となるのでしょうか。
創作は自由であるべきです。私は個々のアーティストや生み出される歌を否定しているのではなく、業界の総体として感じることを伝えています。
若い世代の間では、昭和歌謡に代表されるような時代と共に語り継がれてきた歌が流行しています。その価値が、当時のままにせよ現代的な解釈にせよ、今を生きる多くの人々の心に響いているということは事実です。
曲を生み出すことが容易になり、誰もがすぐに聴くことができるこの時代に、本当に価値のある音楽は増えているのでしょうか。そして、本当に価値のある音楽は正しい評価を得ることができているのでしょうか。