差別をなくそうとするほど、差別は強まるのか
「差別」と聞いて、私たちがまず思い浮かべるのは、「肌の色」や「性別」による差別だろう。
こうした差別は、歴史的に見れば、改善の傾向にある。しかし一方で、新しい形の差別が生まれているのも事実だ。
最初に断っておきたい。「差別をなくそう」とする思いそのものが悪い、と言いたいわけではない。
ただ、同時に知っておく必要があると思う。差別をなくそうとする意識の根底にも、社会や私たち自身の中にある差別意識が潜んでいる可能性があること。そして、差別をなくそうとする試みが、結果として差別を助長してしまうこともありうることだ。
「差別」という言葉は、差別が存在するからこそ生まれた。当たり前のことのようだが、差別をなくそうと声高に叫ぶほど、差別という概念は、かえって強く意識されやすくなる。
差別をなくすことは、想像以上に難しい。
たとえば、特定の肌の色の人々を優先的に起用する。特定の性別の雇用を増やす。そうした施策には、機会の格差を縮める効果がある、という見方がある。一方で、社会が対象となる人々を「優遇しなければならない存在」とみなしていることを暗に示し、かえって地位を損ないかねない、という批判もある。実際に、優遇措置の対象になった人が、周囲から能力や温かさを低く見られやすいことを示した研究がある(効果は小さいから中程度とされる)。
差別をなくすには
では、差別をなくすために、私たちに何ができるのだろうか。
誤解を恐れずに言えば、自分たちと異なる存在を区別し、内側の仲間を優遇する傾向は、人間に広く見られる。些細な基準で人を二つの集団に分けただけでも、人は自分の集団を優遇する、という実験結果がある。この傾向は、進化の過程で形成された側面を持つ、という見方もある。ただ、その起源については、集団内の助け合いの副産物だとする説など、ほかの説明もあり、結論は出ていない。
人は、集団の中で、より高い地位や評価を求める。そして、その過程で、自分たちと異なる存在を排除しようとする傾向が生まれることがある。もちろん、すべてがそうではない。
しかし、私たちには理性がある。
本能的だから仕方がない、ということにはならない。私たちは、特定の誰かを貶めたり、苦しい状況に追い込んだりすることに、怒りや罪悪感を覚えることができる。人間は、本能に抗うことのできる生き物でもある。
まず大切なのは、一人ひとりの意識だ。
人間の思いや価値観は、集団の中で増幅され、時に、力を持つ者によって操作される。私たちの中にある偏見や差別意識を、完全になくすことは、おそらく不可能だろう。しかし、その事実を理解しない限り、差別を減らすこともできない。
近年行われてきた、差別をなくすための試みの中には、期待したほどの成果を上げていないものも少なくない。残酷なことだが、それが現実である。最も確かな成果を上げてきたのは、差別を受けた人々が自らの置かれた状況を訴え、それに社会が共感を示したときだったのかもしれない。
本当に目指すべきは、「差別をなくす」と声高に叫ぶ社会ではなく、そもそも差別を意識する必要のない社会を築くことではないか。ただし、差別を意識しなくなることが、差別を見過ごすことになってはならない。
人々の意識は、時間とともに歪み、弱い立場に置かれた人々の声は、容易にかき消されてしまう。だからこそ、私たちは、その声に耳を傾け続けなければならない。
差別の波は、どの時代にも、何度でも押し寄せてくる。それを鎮め、社会の平穏を保つために必要なのは、制度や言葉だけではない。私たち一人ひとりが、自らの意識に、どのような変革をもたらせるかだ。私は、そう思う。


