医療は本当に私たちを救っているのか?――「治療するほど儲かる」構造を考える
「人権」や「多様性」が重視される現代社会は、一見すると、進歩した社会に見える。しかし、がんや生活習慣病、うつ病など、いわゆる「現代病(文明病)」は、私たちにとって身近な悩みであり続けている。
がんの罹患数は増えている。ただし、その多くは高齢化の影響で、年齢の影響を除いた死亡率は、横ばいから減少傾向にあるとされる。それでも、病気が私たちの暮らしからなくなったわけではない。文明の発達に、人類の進化が追いついていない側面は、もちろんある。大気汚染、化学物質、食生活の変化。私たちの生活環境は、狩猟採集の時代とは大きく異なっている。
では、視点を変えてみよう。医療が、資本主義の中で動いているとしたら、私たちの健康と、医療の収益は、いつも同じ方向を向いているのだろうか。
ここで言いたいのは、医療が悪だということではない。医療に携わる人々の大半は、目の前の患者のために働いている。私が考えたいのは、もっと静かな問いである。利益の仕組みが、私たちの健康と、常に一致するのかどうか、という問いだ。
治療するほど儲かるシステム
「金は人を狂わせる」。そう感じたことのある人は、多いのではないか。
資本主義は、これまで世界を発展させてきた。しかし、「幸福」という観点で見たとき、私たちの生活が本当に良くなってきたのかは、疑問が残る。
たとえば、歯科診療所の数が、コンビニエンスストアより多いと言われる。もっとも、数の多さは、需要や制度の歴史の結果でもあり、それだけで収益構造の証拠とはいえない。ただ、科学や医療がこれほど進歩しているのに、病気の予防という点では、まだ改善の余地が大きいと感じる。
近年広がる「美容医療」も、こうした構造の一端かもしれない。広告やSNSを通じて、コンプレックスが意識されやすくなり、それを解消する市場が広がっていく。そこには、経済的な動機が少なからず関わっているように見える。
さらに、医療機関の経営が厳しさを増す中で、収益を意識せざるを得ない現実がある。その結果、本来はインフラであるべき医療が、経済の原理と切り離せなくなっている。
ゆりかごから墓場まで
「ゆりかごから墓場まで」。本来この言葉は、国家が国民の生活を生涯にわたって支える、理想的な社会保障を意味していた。
しかし、別の見方もできる。医療機関の収入は、診療報酬の仕組み上、提供する医療の量と結びつきやすい。誰かが意図しなくても、予防より治療、短期の完治より長期の通院のほうが、収益に有利に働く構造は、ありうるのではないか。
寿命が延びても、健康でいられる期間が延びなければ、その人生が豊かだとは言えない。厚生労働省の推計(2022年)では、健康寿命は男性72.57歳、女性75.45歳である。平均寿命との差は、男性で約8.5年、女性で約11.6年ある。
薬や通院に頼らざるを得ない生活は、私たちが本来望んでいた姿だろうか。
その影響は、「ゆりかご」、つまり生まれた瞬間から始まっているとも言える。食品、大気、日用品。あらゆるものが、複雑な利害関係の中で成り立っている。
たとえば食品産業では、添加物の使用が一般化している。それらのすべてが悪いわけではない。ただ、効率や利益が優先されるなかで、健康への影響が十分に考慮されない面も、否定できない。
感染症やワクチンについても、単純な善悪では語れない。医療の進歩が多くの命を救ってきたことは、事実である。同時に、医薬品や医療機器が巨大な市場であることも、事実だ。その二つは矛盾しない。効果や安全性は、利権の有無ではなく、個別の科学的な根拠で判断するべきことである。
医療と経済の関係について、ここですべてを語ることはできない。ただ、利益の仕組みが、健康と同じ方向を向いているとは限らないことは、多くの人が意識しておくべきだろう。
では、私たちにできることは何か。
それは、この社会の仕組みを盲目的に受け入れるのではなく、一人の消費者として、主体的に選択していくことではないか。
何を食べ、何を信じ、どのような医療を選ぶのか。その一つひとつの選択が、社会のあり方を少しずつ形づくっていく。
見えにくい構造に目を向け、自分なりに考え続けること。それこそが、この複雑な社会の中で、私たちに求められている姿勢なのだと思う。
ただし、ここで言う「主体的に選ぶ」とは、医療を疑って遠ざけることではない。医師に質問し、説明を求め、納得して選ぶことである。治療中の薬を、自己判断でやめることは、勧めない。


